ハワイ研修報告

ハワイ大学での研修を終えて
沖縄県立中部病院 総合内科後期研修医筧 直之

私が海外留学を志し始めたのは医学部3年生のときでした。当時の大学の先輩から米国の医学雑誌であるNew England Journal of Medicineの勉強会に誘っていただき、内科診断学の面白さに無中になりました。そこで海外臨床留学を目指している先輩と出会い、いつか自分も米国で臨床医として働いてみたいと強く感じるようになりました。その後、国内でも有数の教育病院であり、ハワイ大学と長年の交流がある沖縄県立中部病院に就職しました。
長期目標として米国臨床留学をするため、そして短期目標としてハワイ大学研修で自分自身を売り込むために、初期研修の2年間はとにかく病棟に貼り付いていました。研修3年目では臨床と並行して米国の医師国家試験の勉強を1年以上続けていました。また、外来では外国人患者の診療を引き受けさせていただいたり、症例検討会や学会の英語での発表、英語で議論する論文抄読会の機会は逃さず参加しました。研修4年目ではチーフレジデントとして働き、研修管理を行っていました。こうした下準備を行った上で、2022年10月に渡米しました。

今回はハワイ大学医学部の卒業生が数多く就職するクアキニ医療センター、そしてDr. Jinichi Tokeshiの診療所にお世話になりました。ハワイ大学には様々な背景を持った研修医が集まります。ある学生は将来脳外科を希望していてハワイ大学でデザインをテーマにした雑誌を自分で立ち上げ出版しているということでした。またある研修医はヨルダン出身で「G6PD欠損症(赤血球の膜のタンパク質の病気で貧血をきたす疾患であり日本では稀)やエキノコックス症(寄生虫症であり日本では稀)は自分の国ではよくある病気だよ」と話していたことが印象的でした。

こうした多様な背景を持つチームメンバーと共に、患者の診断や治療について議論を交わしていきます。研修中、最も驚いたことは米国の医学生の優秀さでした。医学部3年生は症例の情報収集やプレゼンテーション、入院サマリーの作成、中には患者の退院調整連絡に挑戦している学生もいました。医学部4年生は研修医の監督下で採血や処方のオーダーなどを行っていました。このように米国の医学生が日本の研修医のような働きをすることで、インターンやレジデントはある程度余裕を持って文献検索や治療方針の決定を行える仕組みになっています。私は近い将来にハワイ大学の内科レジデンシーに応募するつもりなので、実習の目的は自分の臨床技能の到達度を確認すること、そしてとにかくハワイ大学に自分自身を売り込むことでした。そのために私は、

  • ①朝5:30に出勤して患者の情報収集
  • ②指導医への症例プレゼンテーションとカンファレンスでの積極的な発言
  • ③インターンやハワイ大学の学生への論文提供やベッドサイドでのエコーの使い方など臨床教育

を毎日行いました。常に評価されている中での研修は緊張感があり、日本の病院に就職する前の病院見学に戻った気分になりました。研修中、ハワイ大学の学生からお礼の手紙をもらい、インターンとは親友となり休日に共に時間を過ごす仲になりました。病棟での症例プレゼンテーションの際には指導医の先生に「Well organized(良くまとまっているね)」と褒めていただきました。ハワイ大学でこうした一定の評価を受けることができたのも沖縄県立中部病院の同期と切磋琢磨し、指導医の先生の熱い指導があったからこそだと感じ、「大変だったけど、沖縄県立中部病院の研修医として働いていて良かった」と心から感じた瞬間でした。

最後の1週間、Dr.Jinichi Tokeshiの診療所では医師としてのプロフェッショナリズムと日本人としての武士道について教えていただきました。そこで大切なことは、絶え間ない自己研鑽を積むこと、医師としての責任を果たし続けること、そして日本人として誇りと自信を持ってしっかりと意見を相手に伝えることであると学びました。今後も米国での臨床研修開始に備えるために、さらに自分のスキルアップを図っていきたいと思います。

ハワイ大学臨床医学研修報告
沖縄県立中部病院 内科専攻医亀谷航平

この度先生がた 職員の皆様がたのご理解とご協力を賜り、1ヶ月間にわたりハワイ実習の機会を得た。この場をお借りして感謝を申し上げるとともに、見聞きしたこと、考えたことを報告する。

羽田空港を経由し、8時間ほどかけて、観光客でごった返す正月のハワイに到着した。間違いなく、緊張感を持ってホノルル国際空港に降り立ったのは、自分だけであったであろう。ワイキキビーチでのニューイヤーズカウントダウンを楽しみ、打ち上がる満開の花火に目を細めたのも束の間、翌日からすぐに研修が始まった。

Kuakini Medical System(Centerや Hospitalではなく、Systemなのがカッコいい)は、戦後、日系人を主に診療するために建てられた歴史ある地域中核病院である。Waikikiからは、ローカルバスでおよそ30分強とやや離れた場所にあり、その道中でChina Townという路上生活者が数多くいらっしゃる地域を通過する。現地の人によると、Hawaiiは人口あたりの路上生活者が最も多い州であり、経済格差が非常に大きいこと、そして路上に出られるくらい気候が温暖であることがその理由だと冗談半分で教えてくれた。ここHawaiiにも、沖縄同様、厳然たる貧困がはびこっていた。
最初の2週間は、このKuakiniでの研修である。

初日、Chief Residentより各チームに配属となった。研修医からなるチームがAからDの全部で4つあり、それぞれがUpper Level(UL、いない時もあり)、Resident、Intern、MS(Med Student)で構成されていた。自分が配属されたのは、Thailand出身のresident、loco(地元民)のinternのチームであった。

当院よりも明らかに研修教育上優れていると思った点が2つある。
1つ目はcap(capacity)が各チーム10人までと決まっている点である。研修医が担当するのはあくまで少数の患者であり、1つ1つの症例を骨までむしゃぶりつけるようにしているのである。また10人のうちICUは3人までと決まっており、それを超えると別のチームに移動となる。これでは10×4で40人の患者しか研修医チームで対応しないが、ここに振り分けられるのは教育的に「面白い」とstaffが判断した症例のみであり、あとはstaffが担当医となる。multi-task能力が身につくかどうかはわからないが、その分internであってもカルテは非常に細かくかつ書いており、見習うべきことは多かった。
2つ目はMSが3人ほど患者を受け持っており、orderこそ出せないもののinternと同様に働いていることである。当院ではinternですら患者の主な受け持ちはほとんど行っておらず、より優秀なように見えた。
ただinternはresidentが休みの時は1人で病棟を回しており、なかなか大変そうな印象であった。internの朝は5-6AMと早く、pre-pre-roundをしてから(朝採血はもちろん存在しない)residentと医局で方針のdiscussionを行い、residentとpre-roundを行う。その後各病棟に散らばっている症例主治医staffに話しかける(いない場合医療用LINEで呼び出し)ことでtable roundを行う。staffと共に患者の元に出向くことはなく、あくまで方針の確認を行うのみであった。Physicalやhistory takingの教育はあまりなされていない印象であった。またCTやMRIについては、画像を確認することなく、読影レポートのみに目を通している点も少々気になった。国が違えば、常識や文化も異なるらしい。
病院の特色として日系人を伝統的に相手にしてきていることはすでに述べたが、なるほど患者さんのほとんどは日本人の名字を持っている。中には明らかにウチナンチュと思われる名字の方もいた。世代でいうと皆さん日系3世(sansei)/4世(yonsei)であるため、そのほとんどが日本語を話すことはできず、English-onlyであった。
研修医側もmainland USから来ている人もいれば、Thailand、Germany、Jordan、Africaなど様々な国と地域から、自国での研修を終えてから満を持して来ている人もいて、むしろ後者のほうが多い印象であった。沖縄と同じ、ここもチャンプルー文化を強みとする地域であった。
研修内容はひたすら研修医について病棟を回るというものである。PGY-3ではあるが、チームにおいてはobserverとして配属されているため、1人で問診や身体所見をとることは許されていなかった。とはいえ、治療法については積極的に意見を述べ、治療法を変更させることもしばしばあった。殆ど権限が与えられていないことへのもどかしさもあったため、ディスカッションには極力参加した。

はざまの1週間は、かの有名なTokeshi Dojoに参加した。Dr.Jinichi Tokeshiは沖縄県宜野湾市出身の純ウチナーンチュであり、Hawaiiに長く居住し、数多くのmed students、young physiciansを受けて入れてきた伝説の教育者である。
Kuakini Medical Systemの横にそびえ立つTowerの7Fに彼のofficeは位置している。OCHの先輩、黒田格先生(47期)、亀田総合病院神経内科の6年目、そしてルームメイトでもあった韓国はJejuから来ている5th grade med studentと自分の4人でのローテーションであった。内容としては、朝Nursing HomeにいるDr.Tokeshi担当患者の診察、バイタル測定、カルテ記載をすべて終え、朝6:30までに救急室のコーヒーメーカーの前に、Dr.Tokeshiの分のコーヒーを作ったうえで集合する。彼の人生を生きる上での示唆に富む話題に耳を傾けながら、朝食を食べ、officeに向かい診察を開始する。Tokeshi Dojoは、(ECFMG)を保持していない世界中からの学生を対象に、彼の責任の範囲内で可能な限り自由に診察、問診の体験の提供をする場である。
Officeでは、次々に来院する彼の患者(殆どが日系人)に専用のPadを用いながら問診を行いつつ、診察、採血を彼と共に文字通り手取り足取り行う。internのときに気が遠くなるほど採血を繰り返す中で習得した自らのスタイルは完全否定され、Dr.Tokeshiのスタイルに100%合致していないと手をはたかれゲームオーバーになるという、さながら最高難度のRPGゲームのようであった。診察も同じで、半世紀近くにわたってroutineとして繰り返されてきたDr.Tokeshiの診察法を、金太郎飴のごとく繰り返す必要があり、その緊張感は日常では味わえない独特のものであった。その他課外活動が非常に多く、韓国初代大統領李承晩が亡くなったというNursing Homeを訪問したり、「源氏物語」や「雪国」の英訳で知られるEdward G. Seidenstickerの主治医をしていたときの話をうかがったり、日本軍国主義の良い点と悪くない点を論じたり、特に、自ら情報収集をして正しい知識を得て、それを元に自らの意見を持つことの重要性を繰り返し語っておられた。そのジャンルは多岐にわたった。彼からは医師としてだけではなく、人間として生きていくことの厳しさを教えていただいた。真の教育者とは何たるかを雄弁に語るDr.Tokeshiの背中は、あまりにも遠いものであった。
KuakiniとTokeshi Dojo以外では、University of HawaiiのMPHコースの教授に面会して進路相談をさせていただいたことや、OCHではコンサルタントとしておなじみのDr.Osamu Fukuyama一家とのディナーに何度か招かれたことが印象に残っている。
とりとめもなく書き連ねてきたが、ハワイ実習は将来米国臨床留学を目指す者にとってはもちろん大変刺激的な1ヶ月になるだろうし、私のように臨床留学の予定のない者にとっても、ある程度自分でプランをアレンジできれば大変有意義な時間になることは間違いない。もちろん語学力は相当に必要なので、少し話せる程度ではかなり苦労することになるし、病棟の研修医とも良好な関係を築くのは難しいだろう。
しかし本来はかなりの金額を払って留学させていただくのが通常であるHawaii実習であるが、中部病院との長年にわたるpartnershipのおかげでそれも免除され、気楽に研修に臨むことができるのは幸甚というほかない。後進の皆さんには、ぜひともハワイ実習に応募していただき、この素晴らしい国際交流の歴史を継続していってほしいと切に願う。

この場をお借りして、このような機会を与えてくださったハワイ大学事務所の皆様、Dr.Junji Machi、そして現地でお世話になったDr.Osamu Fukuyama、Dr.Jinichi Tokeshiには心より感謝申し上げます。ありがとうございました。