中部病院卒後臨床研修の概要・50年の歴史

中部病院のあらまし

沖縄県立中部病院ハワイ大学卒後医学臨床研修プログラムの歴史(1967〜2020年)

1. 第2次世界大戦後の沖縄

1945年、沖縄諸島は太平洋戦争終末期に地上戦が行われた激戦地であった。
戦後1〜2年間、病院と呼ばれる施設はなく、小さな診療所がいくつかあるだけだった。1946年、沖縄県に残った医師数は64人で、沖縄本島各地に小規模の5病院が建設された。そのような野戦病院の中で、嘉手納基地に近い中部病院は中心的病院となっていった。
1950年には、県外から帰還した医師を含めて沖縄県の総医師数は131人となった。この時の沖縄県の人口は約70万人であり、人口10万に対する医師数はわずか18.7であった。戦後の沖縄県の医療は、本土に比して劣悪であり、長く野戦病院的な医療状況が続いた。敗戦後は、1972年に日本復帰するまで、米軍統治下に置かれた。

2. アメリカ政府・ハワイ大学医学部の役割

1964年、ハワイの太平洋軍司令部は、米軍統治下の沖縄の公衆衛生・医療の状況を視察した。劣悪な医療状況を改善するために、沖縄に臨床研修病院と医育機関としての医科大学設置を勧告した。それによって、本土の医学部卒業後沖縄へ戻らない医師の帰還を促し、また、沖縄で医師の卒後教育を行い、医療状況の改善を図りたいとした。
1967年、米軍政府は国防省の予算を獲得し、ハワイ大学に教育支援を求めた。すでに、戦後の韓国医療界の立て直しに実績を上げていたミネソタ大学のゴールト教授が、ハワイ大学プログラムのデイレクターとして中部病院に赴任した。この時、医師、看護師、検査技師、事務長など15人からなる専門家が中部病院に常駐して、米国式の教育病院としての体制を作った。

3. 沖縄県とハワイ大学医学部のコラボレーション

1971年、日本復帰を控え、米国からの運営資金は中止となり、ハワイ大学スタッフは全員アメリカへ引き上げた。しかし1973年、沖縄県知事とハワイ大学学長との契約により、研修プログラムは継続し、今日に至っている。沖縄県は、このプログラムのために、年間3億円以上の予算を計上し、医師の教育、定着を計ってきた。
各専門科の医長、コメデイカル部門の長、事務部門の代表からなる研修委員会は、研修の企画運営にあたり、ハワイ大学事務所が全面的に支援している。歴代の研修委員長は、院長もしくは副院長がその任についた。
指導医の多くはハワイ大学スタッフの指導を受け、また中部病院での研修終了後、米国で専門医教育を受けたこれらのスタッフを中心にして、米国式の研修を継続した。現在、ハワイ大学を通してアメリカ全土からから、年間に長期コンサルタント(3ヶ月)1人、短期コンサルタント(1週間)10人を招いて、研修医の教育、スタッフの指導に当たっている。

4. 研修制度の目標

中部病院のアメリカ式研修は、次第に全国に知られ、防衛医大を除く全ての医学部から研修医が集まるようになった。
50年以上前、日本では、研修医に十分な教育と給与が与えられていなかった時、中部病院では以下の研修目標を掲げて教育を行った。現在でもその理念は受け継がれている。
1)沖縄県はプログラムの運営に必要な予算措置(給与と宿舎)を行う
2)総合診療を基本にした、臨床医を育てる
3)沖縄県の離島医療を守るために、研修修了者を離島診療所に派遣する
4)全国から意欲ある研修医を募集して教育する